帰省2011年04月04日 22時42分05秒

4/2に妹が退院して来たので、その日の夕方に母親を実家に送って来ました。
地元に着いたのは夜で、周りの様子は良く分かりませんでした。
でも、道路が所々亀裂が入っていたり、陥没したり亀裂が大きかったところは砂利で埋めて応急処置してありました。
東北道はさすがにアスファルトで応急処置されていましたが、至る所で段差注意の掲示があり、路肩の崩れなどはまだ放置されていました。

滞在中、余震も何度かありました。
家全体がガタガタと揺れるので怖かったです。
震度6強はこんなもんじゃなかったのかと思うと、想像したくないですね。
一度、トイレに入っている時に地震があった時は焦りました。
すぐに動けませんから。
それからはトイレや風呂に入っている間は不安でしたし、寝るのも不安でした。
両親は毎日こんなストレスを感じて生活しているのかと思うと、何と言って良いのか分かりません。

日曜日はタイヤをスタッドレスからノーマルに戻しに、馴染みのガソリンスタンドへ行きました。
普通に営業していましたが、被害を受けて大変だったと聞きました。
途中、町にある一番大きな公園の駐車場は、瓦礫置き場と化してました。
山積みで置かれてました。

明るいうちに町を移動すると、被害の様子が分かります。
道路もヒビや応急処置は当たり前で、マンホールが飛び出していたり処置出来ていない箇所も多々ありました。
歩道はガタガタで、電柱は倒れ掛かっていますし、民家の塀は軒並み倒れていますし、瓦は落ちてブルーシートで応急処置しています。
壁に大きなヒビがある家もありましたし、全壊した家も何件かありました。

うちの実家も、土台がひび割れていましたし、玄関の石造りの柱?は根元が割れていました。
家の中は仕事がまとも出来ない状況だったためコツコツ片付けたとの事で、一見元に戻っていました。
でも、いつの間にか食器棚のガラスに大きくヒビが入っていたり、今まで気付かなかった部分にヒビを見付けたり、おそらく余震の影響だと思います。
幸いにも壊れませんでしたが、倒れて配線が取れてしまったテレビを復旧したりして帰って来ました。

とにかく、早く元の生活に戻って欲しいです。
まだまだ普通に物資がある訳ではないですし、流通も戻って欲しいです。
原発も心配ですが、また少し前の兵糧攻めのような状態にはなって欲しくないです。